金沢地方裁判所 昭和48年(ワ)329号 判決 1974年3月15日
原告 大谷健
右訴訟代理人弁護士 手取屋三千夫
同 北尾強也
同 野村侃靱
同 長谷川紘之
同 山腰茂
被告 社会福祉法人恩賜財団済生会
右代表者理事 真柄要助
右訴訟代理人弁護士 岩上勇二
同 田中幹則
主文
原告の請求はいずれもこれを棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一、当事者の求めた裁判
一、原告
1 原告が被告に対し、労働契約上の権利を有することを確認する。
2 被告は原告に対し、金四五五万八、四八八円及び昭和四九年一月以降毎月二一日限り金一八万九、九三七円を支払え。
3 訴訟費用は被告の負担とする。
4 第2項につき仮執行の宣言。
二、被告
主文と同旨。
≪以下事実省略≫
理由
一、済生会病院は被告が設置経営する医療機関であり、外科等八科を有する総合病院であること、原告が勤務していた外科には原告のほかに宮崎誠示外科医長一名が配置されていたこと、原告は昭和三六年金沢大学医学部を卒業し、昭和三七年医師免許を取得して以来、金沢大学病院第一外科に医局員として所属している医師であること、原告は昭和四六年一〇月四日済生会病院長中出隆治を介して被告との間で、外科医として済生会病院外科に勤務することを内容とする雇傭契約を締結したこと、原告は右同日以後、同病院外科で外科医として平日は毎日午前八時三〇分から午後五時まで、土曜日は午前八時三〇分から正午まで勤務し、外来及び入院患者の診療、手術、宿日直等の業務に従事していたこと、昭和四六年一二月一六日午後一時頃、原告は被告より、済生会病院長中出隆治及び同病院理事番幸次を介し、同病院院長室において、口頭で昭和四七年一月から出勤に及ばない旨の宣告を受けたことは、いずれも当事者間に争いがない。
二、そこで、本件雇傭契約に期間の定めがあった旨の被告の抗弁について判断する。
1 ≪証拠省略≫によれば、次のような事実を認めることができる。
(一) 大学医学部における六年間の医学教育では、今日の進歩した近代医学の概要を理解し、また臨床的経験の一端を会得しえても、高度に分化発展した専門分野の医学知識を修得し、独立した臨床医として診療に従事しうるだけの臨床技術を身に付けることはほとんど不可能である。そこで、医師免許を取得したばかりの医師は、多くの場合、大学病院の特定の診療科の医局に入局し、当該専門分野の臨床修練を積み、その間に博士の学位論文を完成させ、しかる後、臨床技術の指導と学位の授与に対するいわゆる御礼奉公として当該診療科の主任教授の指定する病院へ赴任していた。このように、卒業後の臨床医学の修練及び研究の場として、指導者すなわち教授等の文部教官の下に多数の医師が集まり一つの組織を形成した存在が医局であり、医局では文部教官と右の医師達が一体となり、当該専門分野の教育、研究及び診療の三機能を総合的に遂行していた。医局の構成員は、助教授、講師及び助手の文部教官、大学院学生並びにその他の医師からなり、一般に医局員と称されていたが、大学院学生とその他の医師は大学より給与を支給されないところから、無給医局員と称されていた。そして、大学院学生は四年間で学位論文を完成させ、その他の医師は六年ないし八年程度で学位論文を完成させるのが普通であった。この間、無給医局員は、大学病院において入院患者及び外来患者の診療にあたる一方、一年間のうち数か月は医局と人的関係のあるいわゆる関連病院へ出張し、当該病院の診療に従事した(大学の業務遂行のための出張ではないから、「出張」というより「出向」とでもいった方が正確であるが、本判決では病院関係者の用語例に従い「出張」と表現する。)。また、大学病院で診療等に従事する期間においても、一週間のうち数回市中病院へ非常勤医師として出向くことがあった。
右の関連病院への出張は、医局員にとって、大学病院では得られない社会性のある医療の体験を重ねるという意義がないではないが、主として一年間の生活費を得るためのものであり、医局にとっては、医局員を関連病院へ応援として派遣することにより、同病院を医局員の将来の就職先として確保する等、医局の地盤を養成するという意味を有し、関連病院にとっては、医師の人員不足を補充するという意味を有していた。
なお、以上のような医局の運営は、講師又は助手の中から選任される医局長が、主任教授の指示の下に行っていた。
(二) 金沢大学病院第一外科の医局の場合も、右と同様の状況にあり、従来から一年のうち三か月間又は例外的にその倍数の六か月ずつ、医局員を交替で関連病院へ出張させていた。そして、大学病院における診療及び研究並びに関連病院への出張が円滑に行われるように、医局では年度当初に年間計画を立てていたが、それは一年を三期に分け、各医局員ごとに入院患者の診療を行う期間、外来患者の診療を行う期間、関連病院へ出張する期間を定めるというもので、医局員はこの計画に従って右の各業務を遂行していた。
(三) ところで、昭和四四年四月二〇日、第一外科の無給医局員等四二名は、教授が診療、研究、教育、卒後修練、出張業務、赴任などに関する全権を掌握し、教授とその側近で医局を統制し、医局員の自主性、自由意思は全く抑圧されているとして、第一外科医局改革会議を結成し、医局の民主化のため、医局長を公選とすること、及び医局会議を医局の最高決議機関とし、教授以下すべての医局員に一人一票の議決権を与えることを要求する決議文を作成し、これを教授に提出した。そして、教授以下他の医局員を説得し、同年五月一七日全医局員の参加を得て医局会議を設立した。しかし、同年七月一六日、文部教官等一三名の医局員は、右の医局改革運動がその当初目指した方向を全く逸脱し、現状をただいたずらに否定する一部の過激分子により思想的退廃を深めつつ全体主義化し、医局内に極度の荒廃をもたらしたとして、医局会議を脱退し、第一外科教室会議を設立した。そのため、第一外科は無給医局員を中心とする医局会議と、文部教官を中心とする教室会議に事実上二分されることとなった。
(四) 第一外科医局会議は、医局の前記年間計画について、昭和四四年度は従来の方式を踏襲したが、昭和四五年四月二五日の総会において、昭和四五年度(同年五月から昭和四六年四月まで)の関連病院への出張計画を検討し、以後全日勤務の場合の出張期間は三か月間から四か月間に変更すること、金沢市立病院など九病院を出張病院として指定し全日勤務の医師を四か月単位で交替派遣すること、また、被告の済生会病院など一二の病院をパート出張病院として指定し週のうち数回勤務する非常勤の医師を一か月単位で交替派遣することを決定した。そして、昭和四五年四月二九日、第一外科出身の関連病院外科医長との懇談会を開き、右の出張計画を説明した。
なお、関連病院への出張は、関連病院からの出張の依頼に基づいて行ってきたものであるが、北陸三県では金沢大学病院がほとんど唯一の医局員の供給源であるうえに、医局員は金沢大学病院における診療、研究を本業とし、関連病院への出張は従的、副業的なものであるため、関連病院からの出張の依頼や期間延長の要請を充分に満すことができない実情にあり、出張病院の選択、医局員の選択及び出張期間の決定の権利は事実上医局側にあり、関連病院は右決定に従わざるをえない状況にあった。
(五) 済生会病院は、従来より同病院外科へ金沢大学病院第一外科から外科医の派遣を受けていたが、昭和四三年五月、宮崎誠示が外科医長として着任した際に、第一外科からの派遣は打ち切られた。
そこで、宮崎外科医長は、第一外科山本恵一外来医長に医師の派遣を要請し、同年六月から昭和四四年五月まで、火、木、土の各半日勤務という条件で第一外科医局員の派遣を受けた。その間も、宮崎外科医長は、第一外科矢崎敏夫医局長及び新しく結成された第一外科医局会議に対し月曜日から金曜日まで各半日勤務の医師派遣を要請し、昭和四四年六月から昭和四五年四月まで右条件で医局員の派遣を受けた。この場合、医局員は大体一か月から四か月までの間で交替していた。
そして、前記のとおり第一外科医局会議は、昭和四五年五月一日から始まる昭和四五年度の出張計画においても、済生会病院をパート出張病院に指定し、非常勤医師を派遣する予定でいたが、宮崎外科医長は同年四月から病院長代理になったこともあって、前記四月二九日の懇談会において医局会議に対し以後全日勤務医師を派遣するよう強く要請した。そこで、医局会議も済生会病院には特に四か月単位の全日勤務医師を派遣することを決めた。
(六) 以上のような経緯で昭和四五年五月第一外科医局会議から済生会病院へ樋口正樹医師が出張してきたが、その際、樋口医師と宮崎外科医長との間で、樋口医師の済生会病院における勤務条件について、全日勤務とすること、本俸は月額一五万円とし欠勤一日につき一定額を控除することなどを合意し、期間については樋口医師が前記(四)の事情から出張病院における勤務はすべて四か月交替になっている旨述べたので、宮崎外科医長もこれを了承した。
樋口医師は昭和四五年五月から勤務したが、高岡済生会病院に就職することとなったため、八月二〇日をもって済生会病院の勤務をやめ、八月末日までの残余の期間は木谷栄一医師が代りに第一外科医局会議から派遣され勤務した。
以後、同年九月から同年一二月まで米倉幸人、昭和四六年一月から同年四月まで浜辺昇、同年五月から同年九月まで奥村雄外の各医師が第一外科医局会議から派遣されて済生会病院外科に勤務した。このうち、奥村医師のみ勤務が五か月間となるが、同医師は済生会病院に対し昭和四六年八月末で出張期間が切れるが後任の出張医師がまだ決まらないのでもう一か月勤務したい旨申し入れ、済生会病院の了承を得て九月末日まで勤務したものである。
(七) そして、昭和四六年一〇月四日、原告が奥村医師の後任として第一外科医局会議より派遣され、済生会病院外科の勤務に就いた。その際、原告の勤務条件について、原告と済生会病院との間で特に話合いはなかったが、原告は同日より、月、水、金には入院患者の診療、火、木、土には外来患者の診療というように、同病院外科の診療業務を宮崎外科医長と共に分担した。そして、月額一五万円(但し、欠勤一日につき三〇又は三一分の一の額を控除)の本俸のほか、時間外勤務手当、通勤手当、手術手当及び宿日直手当の支給を受けた。そのほか、済生会病院においては、正式医と出張医の処遇を別表のとおり区分していたが、原告は出張医としての処遇を受けていた。
(八) なお、宮崎外科医長はかねてより昭和四七年二月頃をもって退職したい旨済生会病院院長に申し入れていたので、済生会病院はその後任者を探していたが、昭和四六年夏頃、第一外科医局改革会議に属し当時城端厚生病院に勤務していた大倉永央医師が済生会病院への赴任を希望していることを同院長において聞知し、同医師に対し前記奥村医師の出張期間の切れる同年九月一日から正式医として済生会病院へ赴任するよう申し入れた。これに対し、大倉医師は昭和四七年一月から済生会病院へ赴任したい旨同病院に伝えていた。原告は、本件雇傭契約を締結する際、このことを知っており、昭和四六年一〇月二〇日頃、済生会病院長との雑談の中で自分は大倉医師が赴任する同年一二月末まで勤務することになっている旨漏らしていた。
2 以上のとおり、原告は金沢大学病院第一外科医局会議に所属し、第一外科における診療、研究等を本業とし、済生会病院への出張はいわば副業であったこと、原告は五月を起点とし四か月単位で組まれた医局会議の出張計画に従って済生会病院へ出張してきたこと、原告は医局会議によって指名されて一方的に出張してきたもので、済生会病院は事前に履歴書の提出を求めたり面接するなどの選考手続を行っていないこと、原告は給与等において正式医とは区別される出張医としての待遇を受けていたこと、昭和四五年五月に全日勤務医師の出張が始まって以来医局会議から派遣されてくる医師はほとんど四か月ごとに交替しており、四か月の経過前に勤務をやめた樋口医師の場合については、木谷医師がその残余期間のみ勤務し、また五か月勤務した奥村医師の場合については、四か月経過の時点で奥村医師と済生会病院との間で一か月の延長について話合いがなされていること等の事実からすれば、原告と済生会病院との間において、医局会議の出張計画とそれに基づく医師の交替出張の慣例に従い、原告の勤務(雇傭)期間についても、医局会議の昭和四六年度出張計画の始まる同年五月一日から起算して二回目の四か月が経過する同年一二月末日までとする旨の合意が黙示的になされたものと認めるのが相当である。即ち、本件雇傭契約には雇傭期間を昭和四六年一二月末日までとする期間の定めがあったものというべきである。
3 原告は、済生会病院は宮崎外科医長のほか一名の常勤外科医を必要とし、同外科医長は金沢大学病院第一外科に対し正式医として赴任できる外科医又はできるだけ長期間勤務できる外科医の紹介派遣を要請していたが、この要望は第一外科側の事情により容易に実現されず、その妥協として、第一外科所属の医師達と済生会病院との間で、昭和四五年五月以降第一外科所属の医師の中から済生会病院へ少なくとも四か月間継続して全日勤務できる者を継続的に派遣する旨の合意ができあがり、これに基づき樋口医師と済生会病院との間で、少なくとも四か月間は継続して勤務し、四か月経過後も後任者が着任するまで勤務を続ける旨の契約が締結され、これを承継して原告と済生会病院との間で同旨の契約が締結された、と主張する。
この点について検討するに、≪証拠省略≫によると、次の事実が認められる。
(一) 宮崎外科医長は、第一外科医局会議の結成される以前に、第一外科の山本恵一外来医長及び矢崎敏夫医局長に対し、済生会病院へ正式医として赴任できる医師を斡旋するか、あるいは一定期間全日勤務できる医師を派遣するよう要請した。
(二) 宮崎外科医長は、昭和四五年四月二九日の第一外科医局会議と第一外科出身の関連病院外科医長との懇談会において、全日勤務の医師を派遣するよう要望し、懇談会終了後にも医局会議人事委員長の土屋良武医師に同旨の懇請をし、土屋医師は「事情はわかったので、何とかやりくりするよう努力しよう」と答えた。
(三) そして、同年五月に入り、樋口医師が第一外科医局会議から済生会病院へ派遣されてきたが、宮崎外科医長が勤務期間について尋ねたところ、樋口医師は関連病院への出張は四か月交替になっている旨答え、宮崎外科医長もこれを了承した。
勤務期間に関する関係者のやりとりは右のとおりであって、済生会病院と第一外科医局会議、樋口医師又は原告との間において、勤務時間に関するこれ以上の明示の意思表示はなされていない。
なお、宮崎外科医長が第一外科医局会議に正式医として赴任する医師の紹介を依頼したかどうかは必ずしも明らかでないが、仮に右のような依頼をしたとしても、それはあくまでも勤務医師の斡旋依頼にすぎず、第一外科医局会議所属の医師の中で赴任希望の意思表示をした者があったからといって、その者との間で直ちに雇傭契約が成立するものでないことは、いうまでもない。そして済生会病院が原告ら第一外科医局会議所属医師に正式医としての雇傭契約の締結を申込んだ事実を認むべき証拠は全くなく、また、前記のとおり、済生会病院においては、正式医の採用にあたり別表記載のような採用手続と給与決定を行っているところ、原告が済生会病院において勤務を始めるにあたっては、このような手続はとられていないから、本件においては正式医としての雇傭契約の成立を論ずる余地はない。
そこで、前記のようなやりとりから、済生会病院と樋口医師又は原告との間において、原告主張のような、原告らが四か月を最低保障期間としてその意思によりいつまでも勤務を継続し、済生会病院はこれを一方的に受容するという雇用契約が成立したものと推認できるか否かであるが、右のような推認は到底困難というほかない。済生会病院がある程度の期間勤務の継続することを望んでいたであろうということはできても、同病院としても、金沢大学病院での診療、研究等を本業とする医局員の立場を充分認識し、また金沢大学病院、医局員、関連病院の各立場の調整の上に立って前記医局の出張計画が立案実施されていることを理解しているのであるから、過去における医局員の出張慣例からしてもせいぜい半年程度の勤務継続を希望していたものと考えられる。しかし、いずれにしてもそれは契約の一方当事者の単なる希望の域を出るものではなく、契約期間はあくまでも双方当事者の契約意思の合致により定まるものであって、右のような関係者のやりとりに、前述の本契約に至る諸事情を考え合わせれば、本件雇傭契約はあくまでも昭和四六年一二月末日までの期間の定めのあるものとして締結されたものであり、右期間を延長するか、あるいは正式医の身分に切り替えるかは、当事者双方の新たな契約締結に委ねられていたものと考えるのが相当である。
原告は、済生会病院が宮崎外科医長のほかに一名の外科医を恒常的に必要としていたこと、原告の済生会病院外科における勤務が正式医と何ら異ならない性格、内容、責任においてなされていたこと等、本件雇傭の存在理由と実態を基礎として、本件契約を期限の定めのないものと解すべきであると主張するが、右のような事情を考慮に入れてもなお前記の認定を覆すことはできない。有期の契約によっても、済生会病院の要求を満し、原告の担当したような業務の処理が可能であったことは、済生会病院が昭和四五年四月までは非常勤医師の派遣を受けるにとどまり、同年五月以降における樋口医師らの勤務も四か月程度であったことからも明らかである。
もっとも、前記認定事実によると、済生会病院は第一外科医局会議に対して、少なくとも昭和四六年度中(昭和四七年四月まで)は医局員を四か月単位で交替派遣させるよう依頼し、第一外科医局会議も同年度中は医局員を派遣することを予定していたであろうと考えられる。そして、≪証拠省略≫によると、昭和四六年一二月一六日、済生会病院長らは原告に対し、昭和四七年一月一日からは第一外科医局会議からの医師派遣も不要である旨通告した事実を認めることができる。したがって、右の通告は第一外科医局会議の期待に反するものになったものと考えられる。しかし、第一外科医局会議に対する右の依頼は出張医の斡旋依頼にすぎず、雇傭契約はあくまでも現実に出張してきた医師と済生会病院との間で締結されたものであり、本件雇傭契約も原告が昭和四六年一〇月四日済生会病院へ出張してきたときに両者間で締結されたものである。そして、済生会病院と第一外科医局会議間の右のような経緯を考慮に入れても、本件雇傭が同年一二月末日までのものと解すべきこと前記のとおりであるから、同日の経過をもって雇傭関係を終了させたからといって、少なくとも本契約違反の問題は生じない。
4 なお、期間の定めのある契約を締結した臨時職員が、その期間満了の際も自己の雇傭関係が終了せず、契約の更新によって引き続き雇傭されるであろうという期待を持っており且つその期待が経営内の慣習や契約締結の事情などから合理的な根拠を有すると判断され、更に期間の定めが劣悪な労働条件を押し付けることを狙いとするなど、労働法規の制約を免れるための脱法的意図によるものである場合には、これを期間の定めなき雇傭契約と解することができよう。かかる場合に期間満了により雇傭関係を終了させることは、実質的に解雇というべきであり、それが権利濫用にあたるときは無効と解すべきである。
しかし、本件においては、期間の定めは原告ら医局員及び金沢大学病院側の必要に基づくものであって、脱法的意図は全くなく、また済生会病院において出張医の雇傭期間が反覆更新されつつそれが常態化しているというような事情も存在しない。したがって、本件雇傭期間を実質的に期間の定めなき契約と解する余地もないものといわなければならない。
三、してみると、前述の昭和四六年一二月一六日に被告が済生会病院長及び同病院常務理事を介して原告に対してなした申入れは、法的には解雇の意思表示ではなく、雇傭期間が満了することを注意的に通告したにとどまるものと解すべきである。したがって、解雇権の濫用はそもそも問題とならず、本件雇傭契約は昭和四六年一二月末日をもって終了したものというべきである。
四、したがって、原告の被告に対する労働契約上の権利を有することの確認並びに昭和四七年一月から昭和四八年一二月までの賃金の合計金四五五万八、四八八円及び昭和四九年一月以降毎月二一日限り賃金として金一八万九、九三七円の支払を求める請求はその余の点を判断するまでもなく、理由がないからいずれも失当としてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担については、民事訴訟法第八九条の規定を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 加藤義則 裁判官 泉徳治 田中清)
<以下省略>